11. Leek Rag's Leek

 「やさいしいライオン」の後に鳴り響くこの楽曲は、「Sonata」と同じく他に類を見ないロック・ミュージックとなっている。それは、今まで誰もが伝えることが出来なかった想いを表現するフォーマットとして楽曲を創り上げる結果としての産物であるのだろう。ある意味「やさしいライオン」という死に真っ当に向かい合った楽曲を挟んで、「Sonata」は死というものへの、自分自身の存在意義に対する不安をこれでもかと叩き付けたものとして描いた異質なロック・ミュージックだとすると、この「Leek Rag's Leek」は「やさしいライオン」を経由して、死というものを目の当たりにした僕らはただ生き続ければいいのだろう、という楽観的観測に至ってしまう僕らに釘をさす楽曲として存在している。ぽかーんと、ぼけーっと頭の中をからっぽにして無にするとずばっとこの楽曲が響き渡るということも含めて。
 尋常では無い玉田豊夢の人力ブレイク・ビーツの力を最大限に、中村一義の真骨頂であるファルセットを全開に、他の音色も全て含めて僕らを高みに登り詰めさせる高揚感を与えながらも、“笑いっぱなし?”、“泣きっぱなし?”という本来ならば心染み渡る行為を、あたかも生産性のない行為として「?」を語尾に付けて投げかけながら、何度もループさせて辛辣なる言葉をその歌詞の後に紡ぎだす。すべての言葉が、生きることに対する左脳的行為に唾を吐いている。妙なモノローグ(ひとり芝居)、妙なダイアローグ(首脳者同士の意見交換)、妙なサイドストローク(横に泳ぐ、横に振り抜く)、そんな唯物論的な交わし方なんかいらない。それらが産み出すものは、偽証の精神論、過剰な防衛論、机上の論理止まりだと。時には線。時には螺旋を歩み行く僕らはたったひとつの点を今日という瞬間という場所に刻み歩む。その積み重ねで行く。すべての行為に含まれているものが事実だとしても、矛盾だとしても歩いて行く。
 嘘も本当も、僕らが生きている間に綿々と刻まれ続けて行くんだということを認識する重要さ。それを噛み締めなければ、生を受けた僕らが生きている証を記すことは出来ないということを訴えかけているのでは無いだろうか…。