9. 歓喜のうた(対 ベートーベン交響曲第九番「合唱」)『対音楽』と銘打ったアルバムの答えがここにある。
誰もが一度は耳にしたことがある、ベートーベンの「第九」。その旋律に乗せて、「音楽とは?」という問いに大いなる歓喜と共に答えを出している。そう、音楽とは、中村一義にとって、人間であり、生命であり、君であり。結局は、僕自身であったということだ。
“君にとって音楽はどういう存在でしたか?”
こう彼は問いかける。そして、自らは、こう答える。
“僕にとって音楽はみんなと違う『僕』でした”
さらに、人間がこの世に生を受けて死を迎える根源的なテーマに対して、大いなる歓喜を捧げている。
“ちゃんと生きたものに、で、ちゃんと死んだものに、「ありがとう。」を今、言うよ。”
中村一義というアーティストが、師とするベートーベンを召喚して、真摯に音楽に対峙した。その結果、彼は、彼自身が、鳴らす音楽の一部になったのだろうとさえ思う。抽象的な比喩になってしまうが、致し方ない。それは、彼という人間が、音楽という存在に生命の在処を証明する道標を教わったからに他ならない。だからこそ、音楽に入り込むほどに、彼は音楽の一部になり、音楽の内側から、本当の音楽の力と魂を導き出したのだ。だからこそ、音楽に、全ての生死ある命に「ありがとう。」という感情が零れ落ちたのだろう。そして…、
“「ありがとう。」をありがとう。この歓びを。”
「ありがとう。」と言えた今の心にさらに感謝を捧げ、ありがとう。と。想いを重ねる。それを、歓びだ、と、彼は、唄うのだ。さらに、人間がこの世に生を受けて死を迎える根源的なテーマに対しても、大いなる歓喜を捧げているのだ。これ以上の音楽表現は、現在過去未来、世界中見渡しても見つからないだろう。絶対的に…。
僕は、音楽を崇高なものだと思っていない。中村一義だって、そうだろう。きっとベートーベンもそうだったはずだ。しかし、音楽は、時代も時空も国境も人種も越えるものである。とてつもなく人間に影響を及ぼすものである。それが人の命を救う音楽でもあり、日々のたわいもない恋愛感情を表すものでもあり。そこに優劣も差異も全く無いが、辿り着くところは、「なんで音楽がこの世に存在しているのか?」ということだと思う。言語や口語でコミュニケーションたり得る生き物なのに、何故、人間は音楽を必要とするのだろうか…。単なる娯楽なのか…。単なる暇つぶしなのか…。そんなこと深く考えたってどうでもいいことだと言う人もいるだろう。それはそれでも全く問題ない。むしろその方が健全である気がしてならない。けれど、僕は、少なからずとも、僕は、音楽によって救われたことが何度もあった人間だから。音楽が無かったら、生きる意味さえ掴み取ることが出来ない人間だったから。それほど身近にある存在で、かつ、とてつもなく大きな存在であるのが音楽だから。
そんな人間として、僕は思う。
この『歓喜のうた』は、音楽の真理だ。生命の証しだ。
中村一義が、ありがとう、と歓びを唄う。
そんな『歓喜のうた』に、僕から、心の底から、ありがとう、と叫びたい。
“ありがとう、この歓びよ。”
Bonus Track. 僕らにできて、したいこと - Live at 100st. 2011/06/23 -
(対 ベートーベンピアノソナタ第八番「悲愴」)