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100s「A(エース)/やさしいライオン」
TOSHIBA-EMI TOCT-4739
1,050円(税込)


 いきなり小野ちゃん(小野眞一)が画面に現れる。そして、小野ちゃんの「1、2、3!」というヴォコーダーがかかった掛け声から「A(エース)」がはじまる。イントロ1発目のギターはまっちぃ(町田昌広)だ。かのベックの楽曲のリフを引用した力強くソリッドなリフが左のスピーカーから鳴り響く。そして床に敷き詰められた6本のギターのシールド全てがまっちぃのギターに繋がっている。途中から小野ちゃんのギターリフが重なる。今度は右のスピーカーから鳴り響いてくる。6本のシールドをぶち込んだまっちぃのギターから小野ちゃんのギターに1本のシールドが繋がっている。唄が始まる。中村くん(中村一義)はいたって無表情だ。トムくん(玉田豊夢)のタイトなビートも鳴りはじめる。ヒロくん(山口寛雄)の頑強な身体から綴られる正確無比のベースも健在。灰皿が6個。金魚鉢も6個。相変わらず中村くんは無表情であり、侍よろしくな表情を変えない。相変わらずと言えば池ちゃん(池田貴史)だ。バンドマスコットの池ちゃんだけは相変わらずの風貌だ。しかし天井から降り注ぐ風船を待ち望む彼の哀愁漂う姿はなんだろう。笑えるけど笑えない感じ。なにはともあれ、中村くんは6本の煙草を吸い込んだり、小野ちゃんはビールを相変わらずの豪快さであおる。ヒロくん本来のキャラを生かす演出もあり、まっちぃは相変わらずいたずら好きな奴なんだという瞬間も垣間見れるし、途中でスティックを投げ飛ばしてはまたスネアを叩き続けたり、中村くんから進められたビデオテープを投げ捨てるトムくんの姿、あれがトムくんだ。そしてところどころで握手を交わすメンバーの姿は「100sの結束力」の表現であり、至る所で「6」というモノを写し出しているのは「100sとは6人の集合体である」ということへの決意表明であることは明らかであろう。
 いきなり何を書き綴っているのかと言うと、「A(エース)」のプロモーションビデオで繰り広げられている100sのメンバーの模様を言葉に記してみたのだ。本来ならば最初に音楽ありきということで語るべきことなのだろうが、「100sって結局なんなんだよ?」っていう疑問を全て表現し得ているということでプロモーションビデオの中身についてまず書き殴ってみた。とはいいつつも、こんな単なる実況中継的な文章を読むよりも中村一義本人から発せられた「親愛なる皆様へ」という言葉に目を通せば100sとは如何なるバンドか? はたまたどのような活動をして行くのか? ということがわかる。でも実際に映像化された100sのメンバーを見て改めて彼から発せられた言葉が本当の言葉であり、100sというものの本当の姿を感じることが出来たので、とりとめもなくプロモーションビデオの内容を伝えてみたくなった。是非みなさんプロモーションビデオを見て下さい。

 閑話休題

 さあ、何から書きはじめればいいのだろうか。歌詞の内容に言及すべきなのか? この素晴らしきロックミュージックが04年という年代に生まれたことを論じればいいのだろうか? はたまた中村一義史における今回のシングルの位置付けをこと細かく論評すべきなのか? いやいや。それら全てが必要なのかもしれないが、それら全てが不必要であるとも言える。
 まずは当たり前のようで当たり前でないことを書く。100sは新人バンドだ。様々な音楽活動を続けて来た6人が新たに結成してデビューしたバンドだ。この事実からはじめなければ彼等が奏でる音楽を素直に受け止めることが出来ないと思う。先にも書いたが、中村一義から発せられた「親愛なる皆様へ」を読んでもらえれば明らかだろう。しかし、昔ながらの中村一義ファンからするとそうは言ってもどうしても拭い切れない感情があるかもしれない。わかるにはわかる。そしてそれを一番わかっているのが当の本人の中村一義であるからこそ、彼は「親愛なる皆様へ」という言葉を発する必要性を感じ、言葉に記したのだ。とはいいつつも、「100sは新人バンドだ」と言い切っては見たものの、「A(エース)」は明らかに中村一義による詩曲の楽曲であるが故に聴き手の僕らにとって、中村一義というアーティストを知っている僕らにとって、どうにもフォーカス出来ない部分があるのは否めない。しかし改めて聴き込んで欲しい。「A(エース)」という音楽を。そして、リリースまで一切公表しなかった歌詞を改めて噛み締めて欲しい。
 「だろ、だろ? だろ、なぁ、みんな。」
 「自分を行け、行け。」
 「可能だろうが、ねぇ、クレイジー? 可能さ、みんな。」
 あなたは中村一義という人間をどのように捕らえているのだろうか? 個を確立するまで状況に引き裂かれた世界に安住しながら悩み妄想しそこから音楽を表現し得た宅録アーティストという彼のデビュー直後の姿を未だに自分の個と摺り合わせて共感して慰めあっているのだろうか? それならば残念ながらそのような中村一義はもう居ない。当たり前だ。こんなことは。『金字塔』『太陽』『ERA』『100s』の4枚のアルバムを創り上げた彼はもう居ない。そうなのだ。彼ほど時代とともに歩みを進め、個の感情と摺り合わせて、唯心論を信じ突き進み、この瞬間にしか生み出せない楽曲をリアルタイムで吐き出し続けるアーティストはそうはいない。故に彼の現時点での最高傑作はこの「A(エース)/やさしいライオン」ということになる。これは暴言なのかな。いや違う。正論だ。改めて思う。幸い僕らは過去の彼の音源を振り返り聴き直すことが出来るリスナーとして存在している。そして改めて聴き直して感銘を受け取ることが出来る幸せな環境にいる。しかし、彼のような真摯なアーティストは決して振り向かない。今しか見ない。今を最大限に表現することしか出来ないと言っても過言じゃない。とはいいつつも過去の古き良き音楽や自分自身の声は決して忘れていない。でもそれを心に溜めて溜めて今を吐き出し続けている。
 「だろ、だろ? だろ、なぁ、みんな。」
 「自分を行け、行け。」
 「可能だろうが、ねぇ、クレイジー? 可能さ、みんな。」
 この3つのフレーズを改めて噛み締める。これは、中村一義というアーティストを愛し続けた僕らに向けて放たれた言葉ではないかと感じることは勝手な妄想であろうか? 彼は今までたくさんの言葉を僕達に向けて唄に乗せて発して来た。それを心に溜めて、感情を解き放つことが出来るはずの、はずの、はずの、僕らに向けて放たれた言葉だ。僕なりにこの歌詞の、彼が伝えんとする気持ちにたいして言葉を添えさせてもらうとすると、“もうさ、みんなは知ってるんだし、わかっているはずだろ? 俺がここまで行けてるんだから、行けるはずだろ? なら自分を行けよ。俺が可能ならさ、可能だろ、みんな。俺のこの言葉は気狂いの発言じゃないだろ?”。僕にはこう聴こえる。だからこそこのような言葉さえも彼の口から飛び出して来たのだろう。
 「尊敬の念を持して握手。」
 「相違な僕らならば、そう、互いに拍手。」
 個対世界という膨大なプランを飛び出し(『金字塔』)、個対個の繋がりの暖かさという経験を通して(『太陽』)、個対全体というものへ警鐘を鳴らし唾を吐きかけさよならを告げ(『ERA』)、6人の個と繋がり大多数の人間へとの繋がりを経験し(『100s』)、今に至る彼にとって、目に見える親愛なる人、同じ志を持つソウルメイトには力強く「尊敬の念を持して握手。」をする。そして、自分とは異なる人に対して牙を剥くではなく「互いに拍手。」をする。そういう今に至っているのが今の中村一義なのではなかろうか。それを中村一義を暖かく受け止めて来た僕らがどう感じるかということだ。ようは。100sは6人の新人バンドだが、この「A(エース)」という楽曲にはまだ個:中村一義という表現者の色は濃く染み渡っている。そして、それは、今まで個:中村一義というアーティストを追い続けて来たファンのみんなにも声を発しているということのだ。
 しかし、まあ、考えて欲しいのだ。ここまで聴き手に対して、音楽に対して真摯でいて優しいアーティストなんてそうはいないはずだよ。身勝手に音楽を表現することに真摯になり過ぎて聴き手を突き放すことは決してせずに、今までの全てを受け止めて全てに答えを出すというアーティストはいないよ。そしてその楽曲を、未だ見ぬオーディエンスにも届かせようと息巻いて躍起になれるアーティストはそうはいないんだ。うん。絶対いない。だから中村一義を愛して止まないのだ。僕は。いや、同じように彼を愛し続けている人も同じ気持ちであろう。
 さあ、彼はここまで生きて来て、この時代にこのような音楽表現を手に入れることが出来た。僕らはどうだ? 生きている今日という日々を無惨にも過去へ過去へと追いやっていないか? 堕落していないか? 自分自身に問う。そして、僕は、これから100sは何処へ向かっていくのだろうか? というところにすでに目が行ってしまっている。「やさしいライオン」を聴けばその期待は膨らむ一方だろう。山口寛雄の楽曲に中村一義が詩を付けたこの楽曲。すげーポップスだよ。中村一義が個で産み出した楽曲のイメージを払拭して聴け。すげーポップスだよ。最高。今後、どのような形で100sの楽曲がリリースされて行くかはわからないが、このような感じで6人全員のメンバーから産み出される音楽が様々な形で産まれ出てくるのだろう。まるでビートルズの『アビィロード』のようなアルバムを産み出してしまいそうな感じがしてどうにも胸の鼓動が高ぶって押さえ切れない。ちょっと刹那的な妄想も入り込んでしまうんだけどね。まあ、それはそれとして期待は膨らむばかりだ。未だ見ぬ境地へ。
 「A(エース)」といえば、トランプで言うと最後の切り札的存在だ。そんな無謀なタイトルを冠した彼等の意気込みが楽曲全てからビッシビシ感じることができる。バンドという生演奏であるにも関わらずカット&ペーストされたかのような楽曲構成。70年代のアメリカン・
ハードロック然としたギターリフの応酬。ルーツ・オブ・ブラックミュージックなビートとベース。往年のファンカデリック再来のようなキーボードの音色。シンプル・イズ・ベストなメロディー。これは決して今まであり得なかったロック・ミュージックが誕生したということだと断言してもいいはずだ。そんな音楽を生み出せる関係性を築き上げることが出来て、今後の可能性へ期待を込められると判断したからこそ、100sは100sとしてデビューを飾ったのだ。誰の言葉か忘れたが「ロックとは発明である」と。そういうことだ。そして、ことあるごとに「100sは、ザ・バンドのような関係性です」と中村本人が発言しているように、100sの個性が音楽を純粋に高めて創り上げて行く共同体としてもっともっと成長し、もっともっと素晴らしい新しきロック・ミュージックを産み続けてくれることを期待して止まない。その号砲となるシングルが「A(エース)/やさしいライオン」であるということだ。
 みんな心して聴け。そして心して待て。心あるならば自分を行け。尊敬の念を持して握手できるように。互いに拍手する関係になるのならなろう。そこのあなたにある心から溢れ出す高鳴る心臓音を出せ、そして、彼等に届かせろ。そう、彼等の高鳴る心臓音第一弾はもう僕らに届いたのだから。今度は僕らの番だ。 だろ?